(株)大城組 元代表取締役会長 大城 鎌吉の寄稿

尊い上地さんの発案

 昭和四十六年の夏だったと思う。沖縄タイムス社長の上地一史さん(故人)が私を訪ねてきて、

「戦争の影響もあって、いろいろな犯罪や社会的事件の発生にも見られるように沖縄の社会はまだまだ荒れており、人心もすさんでいる面がある。守礼の邦とはいっても、精神的な訓練は不足しており、このような社会的混乱に対処して人びとの心を浄化し、沖縄を安定させるためにはどうしても宗教的土壌を培う必要がある。そのために、有志を募って有名な成田山を沖縄に建立したいので、ぜひ協力してもらいたい」と訴えてきた。

 上地さんは、私をヤッチー(兄貴)と呼んでいたくらい極めて親しい付き合いをしてもらった立派な人だが、沖縄のことを思う、その熱心な気持ちには私も心を打たれ、全面的に協力することを約束した。そのときは、実にすばらしい趣意書も準備されていた。

 そのような話があって間もなく、ライオンズ・クラブの地区大会が熊本で開かれることになり、上地さんらとともに私も参加した。大会を終わっての帰途、上地さんは、沖縄タイムス福岡支局から車を呼び寄せるので、ぜひ久留米の成田山を見てほしいと言ってきた。恐らく、住職の金子妙福さんとはすでに話を詰めてあってのことだったと思ったが、久留米の成田山明王寺はきれいな高台のいい所に建っていて心も洗われる思いだったし、上地さんらの提唱にはますます確信を深めるようになった。

 建立の話はこのような経過で進み、発起人も揃ったので、その年の末には壺川の琉銀クラブで「沖縄成田山奉賛会」の設立発起人会が開催された。発起人には私を含め、上地一史、崎浜秀英(琉球銀行頭取)、山内康司(沖縄銀行会長)、国場幸吉(国場組副社長)、佐辺良夫(琉球石油社長)、比嘉松栄(沖縄タイル社長)、金城栄秀(光電気社長)、又吉康栄(沖縄ナショナル製品販売社長)、呉屋秀信(金秀鉄工社長)、玉那覇有義(瑞穂酒造社長、故人)、照屋敏子(クロコデールストアー社長)、有村喬(有村産業社長)といった壮々たるメンバーが加わり、事務局長として、上地さんが推薦した野村健君(元琉球日報編集局長)らが名を連ねた。

 この席では奉賛会役員の構成についても話し合われ、上地さんが私に会長になってほしいとすすめた。私は「あなたがこの計画の提唱者であり、会長として適任だ」といって断ったが、上地さんをはじめ、周囲から実際の仕事は自分たちがやるからと繰り返し頼まれたので、とうとう引き受けることにした。

 協議の結果、私が会長となり、副会長には崎浜秀英、上地一史、国場幸吉さんの三人になってもらい、山内康司さんが顧問を引き受けた。さらに、理事も選任し、財政、建設など各部門の担当者も決めた。

 こうして組織が出来たので、早速その年から県内での寄付金募集に乗り出し、昭和四十七年の初めからは、私を含め、役員らが有名企業を対象に、東京、大阪、名古屋方面を回った。

 松下幸之助さん(故人)にもお会いすることができたが、あの方は成田山千葉大本山の奉賛会副会長もしておられて信仰心が厚く、私どものお願いに対しては非常に好意的な態度を示し、大口の寄付をされた。

 そういったこともあったのだが募金活動は、物価高、不景気という状況下では思うように集まらず大変苦労をした。


金子住職の霊感

 このような曲折を経て、いよいよ着工の準備がある程度整ったので、久留米の成田山明王寺から金子住職をお招きして敷地の選定にあたってもらった。そして、候補地を挙げて種々検討した結果、中城村伊舎堂の旗立山が適地と決まった。金子さんは、すばらしく霊感のある女性の住職で、この山中を踏査したとき、そこに水源地があることをぴたりと当てるほどだった。信徒の女性が妊娠した。が、途中でじん臓病にかかり、母体の安全ということもあって産むべきか、そうすべきでないかと悩んで住職に伺いを立てたところ、大丈夫だから産みなさいと告げられた。心配しながら臨月を迎えたが、立派な男の子を安産したうえ、本人も健康を回復した。これは、成田山の例会のとき、そのご主人から聞いた話である。神が見えるというか、金子住職はそのようなお方である。

 沖縄成田山の建立工事については当初、本土の大林組と竹中工務店からやらせてほしいと私のところに頼みがあったが、海洋博が近づいていたこともあってか、手が回らないと言ってきたので新生住宅(山里銀三社長)に請け負ってもらった。工事に着工したのは昭和四十七年八月、完成までには実に三年四か月もかかったのである。その間にも、工事と並行して募金活動はずっと続けたが、昭和四十九年九月八日、ローマに近いイオニア海でTWA機が墜落するという事故に遭って、不幸にも上地一史さんが急死されて以降はうまく運ばなかった。上地さんが成田山の落成を見ずに他界されたことは非常に悲しく残念なことであるが、私ども奉賛会の役員は、その遺志に添うようあらゆる努力をすることを誓い合った。

 本堂が完成し、「沖縄成田山福泉寺」の落慶(入魂)式がとり行われたのは昭和五十年十一月二十三日である。関係者多数が出席し、沖縄も管轄する久留米成田山の金子住職が祈願され、私は奉賛会会長としてあいさつした。発起から四年近くもかかった苦労がようやく実を結んだときは、本当にホッとした気持だった。そして、責任役員として金子住職を代表に野村健、私の三人が選ばれ、また総代会は、佐辺良夫、比嘉松栄、金城栄秀、又吉康栄、呉屋秀信、玉那覇有義、有村喬、野村健、私の九人で開始した。


成田山とは

ここで、私が得た知識の範囲で成田山のことを紹介しておきたい。

 成田山は、平安時代に僧空海が中国密教を日本に伝えて独立させ、法身大日如来の説いた「真言宗」の教えを奉ずる真言宗の智山派に属する。また、成田山は京都七条東山の智積院から発し、大元締としての大本山が千葉に、総本山が京都にあって全国的に組織を持っている。ことに家庭安泰、交通安全の祈願では広く知られている。松下幸之助さん(故人)が熱心な信仰者の一人であることはすでに紹介したが、佐藤栄作元首相や椎名悦三郎元外相(いずれも故人)らも千葉大本山の奉賛会長されたほど有名である。千葉ではまた、幼稚園から高校まで設置してあり、東京では、真言宗と天台宗が共同で大正大学を運営するなど社会奉仕にも力を入れている。私どもの沖縄成田山もこれにならい、一日も早く社会のために尽くせるような教育施設を持ちたいというのは私一人だけでなく、関係者一同の切なる願いである。


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